第5章 自業自得
山田悠子の姿は、現れた瞬間に井上祐衣の目に入っていた。
あの露出の多いネグリジェ姿。そして二人だけで交わされる視線。それらを目にした途端、井上祐衣の胃の腑が激しく波打った。
気持ち悪い。
全身の力を振り絞って嘔吐感を抑え込む。そこへ井上颯人の言葉だ。祐衣にとっては渡りに船だった。
井上祐衣は虚ろな瞳で頷くと、立ち上がりざま、何気ない手つきでスマートフォンをソファの隙間に滑り込ませた。
「そうね、確かに少し疲れたわ。部屋で横になるわね」
彼女の寝室は二階にある。そこへ向かうには、必然的に山田悠子のそばを通らなければならない。
悠子は隠れるどころか、階段の手すりに身を預け、ただでさえ際どい胸元の布地をさらに広げて色気を振りまいた。
井上颯人は喉を鳴らし、警告の視線を彼女に投げる。すぐさま大股で祐衣の前へ立ちはだかると、悠子の身体を強引に引き剥がした。
悠子は白目を剥き、不満そうに口を尖らせながらソファへドカッと座り込んだ。
井上祐衣は瞬きをした。
「颯人?」
井上颯人は慌てて彼女の体を支え、取り繕うように笑った。
「段差に気をつけて。部屋まで送るよ」
「ええ」
井上祐衣は浅く微笑み、颯人に部屋まで送らせた。
「ありがとう、もう休むわ。颯人は用事を済ませてきて」
井上颯人は上の空で頷き、きびすを返すと、待ちきれない様子でドアを閉めて立ち去った。
人がいなくなると、井上祐衣の表情は瞬時に凍りついた。彼女はドレッサーの上の除菌シートを掴み、先ほど颯人と触れた箇所を力任せに拭った。
あっという間に一パック使い切り、両手は赤く腫れ上がった。
深呼吸をして、祐衣は再び舌先を噛み、走る激痛で己に忍耐を言い聞かせた。
耐えるのよ。
……
階下では、井上颯人と山田悠子が狂ったように激しくキスを交わしていた。悠子の口紅が滲み、二人の口元に淫靡な痕跡を残している。
「あんた本当イカれてるわ! 彼女が家にいるのよ!」
井上颯人は息を切らしながら悠子を咎めたが、その動作には少しの躊躇いもなかった。
悠子は男の卑しい本性を知り尽くしており、「くすくす」と笑いながら両腕を颯人の首に回した。
「何よ、たかがめくらじゃない」
「それに、この方がスリルがあるでしょ……」
井上颯人は彼女の唇を塞いだ。
二人が暴発寸前になったその時、颯人の携帯電話が突然鳴り響いた。
「リンリン――」
悠子は焦って颯人を抱きしめ、着信音を無視させようとしたが、颯人は彼女の想像以上に意志が固かった。
男は瞬時に正気を取り戻し、力強く彼女を突き飛ばして電話に出た。
「ああ、わかった。すぐに行く」
井上颯人の沈んだ顔色を見て、山田悠子も顔を曇らせた。
「また会社?」
井上颯人は眉をひそめた。眉間には深い皺が刻まれている。
「今秘書から電話があった。大口の顧客が何人も引き抜かれたらしい。戻って確認しないと」
それを聞いて悠子の顔色が変わった。体を起こして真剣に尋ねる。
「どういうこと?」
井上颯人は首を横に振り、多くを語ろうとしなかった。
「詳しいことはまだわからない。今日は送っていけないから、早く帰ってくれ。彼女に気づかれるなよ」
そう言うと、井上颯人は立ち上がって身なりを整え、去り際に再度悠子に警告した。
「早く行けよ。井上祐衣は警戒心が強いんだ、ちょっかい出すなよ!」
それに対し、悠子は不屑そうに口を曲げただけだった。
ただの盲人のくせに、何が怖いのよ。
彼女はこの家でずっと女主人として振る舞ってきたけれど、あの盲人は何も気づいてないじゃない。
今朝の祐衣からの屈辱を思い出し、悠子の心に毒々しい感情が湧き上がった。
いいわ、あんたにどれだけの能があるか見せてもらおうじゃない。
山田悠子は冷笑し、突然立ち上がってドアを激しく閉めた。その音は二階の井上祐衣を驚かせるのに十分だった。
「祐衣さん? 祐衣さん、いらっしゃる?」
悠子はわざと大声で叫びながら、悠然と慣れた足取りで祐衣の部屋のドアの前まで歩いた。
室内で、井上祐衣は眉をひそめ、手探りでドアを開けた。
「あなたは……」
「祐衣さん、私は颯人さんの友達よ。彼、会社で急用ができちゃって、私にあなたの世話を頼んでいったの!」
山田悠子の声は甘ったるく、もし祐衣に彼女の顔の悪意が見えていなければ、本当に騙されていたかもしれない。
「そうなの? 颯人からは聞いていなかったけど。お名前は?」
「悠子って呼んで!」
悠子は愛想よく一歩踏み出したが、祐衣は瞬時に後ずさりして彼女を避けた。
悠子の笑顔が凍りついた。
「祐衣さん?」
井上祐衣は薄く笑った。
「ごめんなさい、知らない人が近くにいるのは慣れなくて」
「用があるなら、そこで言ってちょうだい」
山田悠子は口の端を引きつらせた。
「祐衣さん、さっき颯人さんが、あなたはまだ夕食を食べていないって言ってたわ。下へ降りて食事にしましょう」
祐衣に断られるのを恐れたのか、悠子は声を和らげ、いじらしく言った。
「祐衣さん、これは颯人さんから頼まれた任務なの。私を助けると思って、ね? お願い」
井上祐衣は冷ややかな目で彼女の芝居を見ていた。胃の中はずっと波打っている。
本当に気持ち悪い。
颯人と情事に及んだネグリジェを着たまま、よくもまあ厚かましく馴れ馴れしくできるものだ。
祐衣は口の中を噛み切り、血の味が広がることで嘔吐感を抑え込んだ。
「わかったわ、お手数をおかけするわね」
井上祐衣は優しく微笑み、さりげなく悠子の差し出した手を拒絶した。
「心配しないで、一人で歩くのには慣れているから」
山田悠子はもちろん願ったり叶ったりで、すぐに手を引っ込め、祐衣が手探りで階段を降りるのを面白そうに見物した。
祐衣が階段の降り口に近づいた瞬間、悠子は悪意に満ちた目で前に進み出て、祐衣の前に足を突き出した。
この盲人が転がり落ちて死ぬかどうか、見物してやろうじゃないの。
「きゃっ!」
しかし、突然足をくじいたのは井上祐衣の方だった。無様に倒れ込み、体は前へと倒れたが、階段の方ではなく、あろうことか階段の降り口に斜めに寄りかかっていた悠子の方へ向かっていった。
悠子が反応する間もなく、目の前の世界が反転した。あっという間に天地がひっくり返り、体は見えない手に操られるかのように、悲鳴を上げながら階段を転げ落ちていった。
「きゃあぁぁぁ――」
凄惨な悲鳴の中、井上祐衣の口元に一瞬笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼女は焦燥と虚無を浮かべた目で、誰もいない階段を見下ろした。
「悠子さん! 大丈夫ですか!?」
返ってきたのは、山田悠子の悲痛な叫び声だった。
「足が! 私の足が痛い!」
井上祐衣は身を乗り出して悠子の惨状を鑑賞したが、顔には心配の色を浮かべていた。
「悠子さん、怖がらないで、今すぐ颯人に電話するわ!」
そう言って、彼女は早足で手すりを伝って階段を降り、呻いている悠子の横を通る際、「うっかり」彼女の痛めた足を思い切り踏みつけた。
「ぎゃあ!」
裂けるような絶叫が響き、悠子は狂ったように歪んだ顔で祐衣を睨んだ。
「何すんのよ!」
井上祐衣は「ひどく驚いた」様子で、誰もいない方向を茫然と見つめ、謝り続けた。
「あら、本当にごめんなさい! わざとじゃないの!」
そう言うと、井上祐衣は手探りでソファの前まで歩き、携帯を開いて冷ややかに「録音終了」ボタンを押した。
そしてすぐに、緊張と心配の入り混じった声で言った。
「あちゃん、颯人に電話して」
……
井上颯人はすぐに戻ってきた。
ソファで服を乱し足を抱えている山田悠子と、その横で落ち着きなく座り、恐怖に顔を歪めている井上祐衣を見て、颯人は頭皮が痺れるのを感じた。
「颯人、戻ったのね!」
